739年は唐の武将、張守珪の没年。
彼は突厥との戦いで戦果をあげ、将軍となった。727年、彼は吐蕃の攻撃で多大な損害を被った州城を再建せんとしていたところ、またしても吐蕃が攻め寄せてきた。多勢に無勢、しかも兵士らは先の敗北で士気も低い。ここで張守珪は、あえて兵士らに城の上で酒宴を開かせた。吐蕃は城内に防備があるかといぶかしみ、退却した。いわゆる空城計である。彼は後退する吐蕃を追撃させ、敗走せしめた。
この戦いで彼の武名はさらに上がり、契丹との戦いでも活躍した。だが738年、部下が勅命を偽って戦端を開き、敗北する。しかも彼は勝利についてのみ報告、査察に来た宦官に賄賂をおくり、真相を隠蔽しようとした。しかし悪事は続かぬもの。宦官は誅滅され、張守珪もまた左遷された。そして間もなく病を得、739年にこの世を去った。
彼は突厥との戦いで戦果をあげ、将軍となった。727年、彼は吐蕃の攻撃で多大な損害を被った州城を再建せんとしていたところ、またしても吐蕃が攻め寄せてきた。多勢に無勢、しかも兵士らは先の敗北で士気も低い。ここで張守珪は、あえて兵士らに城の上で酒宴を開かせた。吐蕃は城内に防備があるかといぶかしみ、退却した。いわゆる空城計である。彼は後退する吐蕃を追撃させ、敗走せしめた。
この戦いで彼の武名はさらに上がり、契丹との戦いでも活躍した。だが738年、部下が勅命を偽って戦端を開き、敗北する。しかも彼は勝利についてのみ報告、査察に来た宦官に賄賂をおくり、真相を隠蔽しようとした。しかし悪事は続かぬもの。宦官は誅滅され、張守珪もまた左遷された。そして間もなく病を得、739年にこの世を去った。
勇猛にして大胆な将が、賢しらな策を講じて自らの破滅を招く。なんとも悲しいことだ。などと上から目線でほざきつつ、今日はターゲットタエボーの胸&肩および背中。わしぐらい臆病で小心な輩は、小手先でごまかしても「毎度のこと」扱い。まあ、いいのかわるいのか。
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