アニアン製作日記より。
void GraphicWizardLairとかめぞん六星の書斎の部屋を経由。
人が生きていく上で、「目的」って何なんだろう?
今は無きホビー・データで働くべく横浜に向かう時、私は「たとえ飢え死にしてでもやりたい」と言った記憶がある。
創作という仕事に、私はかつえていた。ネットゲームはそのころの私にとって飢えを満たすための最も手近な手段だった。
さまざまな事情があったもののとにかくおっぽりだされた私は、無給で半年ほど仕事をした後に実家へ帰ってきた。結局、親に庇護を求めたわけだ。
「親から受けた恩義を返せるならいい」と考え、私は経験不問の職についた。
綺麗事を言いつつ老人らを騙すような仕事であったが、それでもなんとか続けようとした。職を転々とした結果として親に苦労させた罪滅ぼしのつもりだった。
明確な詐欺行為の指示を受けたときには、さすがに退社を選んだが。
それと前後して、わたしはゼータ0096を書きはじめた。
「あわよくば再びネットゲーム業界で仕事ができるように」「私の才能はきっと誰かに認められるはずだ」
そんな甘っちょろい考えが私の内にあったことは否定できない。
結局、そんな夢を見ている内に状況は変わっていった。
人の好意にすがりついて職にありついた末に、その好意を仇で返したりもした。
いかなる天のきまぐれか、伴侶を得た。
その数か月後に、自らがアスペルガー症候群だと知った。
ホビー・データはつぶれ、ネットゲーム業界自体がほぼ消滅した。
そして私は「自らには他人に認められるほどの才能などない」という事実に40を目前にして直面している。
文を書く才能のみでなく、社会人として生きていくための才能すべてだ。
今の私は、窓際サラリーマンとして生きている。
私にとってなにが目的なのか?
「家族の幸せ」を目的と考えるなら、私が退場することこそそれを達成するための最短手段だと思われる。
しかし、本当にそうなのか?
目的のために「飢え死に」や「退場」を手段とすることが正当化できるのだろうか?
それとも、そういった覚悟ができない者は「目的」を達成できないのだろうか?
だとすると、市井に生きる人々の多くは覚悟のない敗者なのだろうか? 愚かな私だが、そんなはずはないということぐらいは分かる。
では私は、どう生きればいいのだ?
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