紀元前397年はアンティパトロスの生年。
マケドニアのフィリッポス2世の下で働き、その死後はアレクサンドロス大王に使えた。
アレクサンドロスの東方遠征時に彼はマケドニア本国の統治を任せられていたというから、信任は厚かったのだろう。
アレクサンドロスの死後はさまざまな争いの後、帝国の摂政の地位を得ている。しかしまもなく病を得て職を辞し、その地位をポリュペルコンに譲った。だがアンティパトロスの子カッサンドロスはこれをよしとせず、結果として争いを激化させてしまった。
尊敬というのはなかなか人に伝えにくいものだよな、などと思いつつ今日は脂肪燃焼プログラム。
「いまだにブートキャンプを続けている」と他人に伝えても、その人がブートキャンプに関心を抱いたりすることはまれだ。だから私に出来るのは、誰もが忘れ去っても黙々と続け、記録していくことぐらいだろう。
>アレクサンドロスの東方遠征時に彼はマケドニア本国の統治を任せられていたというから、信任は厚かったのだろう。
いやいやいやいや。
留守中に国を乗っ取られはしないかと、かなり本気で心配していたようです。
もともと大王の部下じゃなくて、パルメニオンと同じく父親の遺臣なので、考え方も仕え方も若い連中と違っていて、完全に信頼できない事情があったのですね。
大王がもう少し長生きしていればアンティパトロスは粛清されていた可能性がありますし、逆に大王の死はアンティパトロスの差し金による暗殺だという説も根強いものがあります。
投稿情報: ばべる | 2008-10-18 08:51
なるほど、勉強になります。
なにやらアレクサンドロスのお母さんとの不倫を疑われたりもしたそうですが、そんなに他人の不信を招くようなところがあったんですかねえ。
投稿情報: Hi-Low-Mix | 2008-10-18 18:49