ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル。北を金閣湾、東をボスポラス海峡、南をマルマラ海に囲まれたその大都市にとって、唯一トラキア方面へと開かれた西側は柔らかな下腹部とも言えた。
これを保護すべく、コンスタンティヌス大帝以来次々と城壁が築かれる。その中でも、全長5.6kmにもおよぶ最大の城壁が、413年に完成した。人々はそれを「テオドシウスの城壁」と呼んだ。
1453年、オスマン帝国のメフメット2世は砲身8mにおよぶ巨砲、300隻もの艦隊、正規軍と不正規軍あわせて10万以上の大軍をもってコンスタンティノープルを包囲する。
すでに弱体化が著しいビザンツ軍であったが、テオドシウスの城壁の防備は固く、オスマン軍の攻撃をよく凌いだ。その善戦にオスマン軍内でも和平を唱える者もあらわれ、ハンガリーなど欧州のキリスト教徒勢力も介入の構えを示したという。
だがメフメット2世はさらなる総攻撃の命を下す。乱戦の中一団のオスマン軍が城内へとすすみ、塔に旗を掲げる。時をほぼ同じくしてイタリア人傭兵隊長が負傷して後退したため、防衛に間隙が生じた。オスマン軍はここぞとばかりに城壁を砲撃にて穿ち、ついにオスマン軍が市中へと突入する。こうしてコンスタンティノープルはオスマン帝国首都イスタンブールとなった。
オスマン帝国はその後も伸張を続け、首都そのものを城壁で守る必要性に迫られなかった。このため、テオドシウスの城壁は放置され、長き年月のうちに崩落が目立つようになった。
トルコが共和制へと変わった後には一部で城壁の修復がなされ、今日も往時を思わせるようにそびえている。
…その割には、堀で住民が勝手に耕作しちゃったりしてるんだけどね。
などと思い返しつつ、今日は最終プログラム。歴史が日常とそのまま重なり合うイスタンブールの情景と同様、積んできた因果と日常は私の中で重なっている。良しにつけ悪しきにつけ、だ。だから今は、その意義がわからなくても鍛えよう。
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