男の魂に火をつけろ!「愛なら仕方ないな」より。どうも言葉が足りなかったようなのだが、他所様でする話でもないので、こちらにて。
戦前・戦中の日本について、個人的には以下のように認識している。とんだ誤認もあるかと思うが、とりあえず立ち位置を示しておきたい。
まず、幕末および明治維新のあたりですでに、国民(という言い方は不適だが)の意識には大きな矛盾が内包されていた。日本における新興宗教の多くがこの時期に成立し、しかもその大半が生活に困窮した民間人が突如「神懸かり」、国家神道のカリカチュアのようなことを唱えだしたところに始まりがあるというのは興味深い。時代の急激な変化による意識の混乱、そこに輪をかけるように国家神道という奇怪な物語が流布されていた構造が見て取れる。少なからぬ国民が「明治日本」に対しある種の困惑を抱いていたことは、西郷への畏敬の念からも感じ取れる。
それらの困惑が、逆に国家神道という物語を強固で不可侵なドグマにしていったであろうことは想像に難くない。理不尽だが回避できない状況に追い込まれた人々が、自らにその「理不尽」を納得させようと努めるのは今日でもよくあることだ。
そのようにして奇怪なドグマにとらわれていった先に、南朝を巡る論争や、「統帥権干犯」、「天皇機関説」批判などがあった。その過程において軍人らが果たした役割は小さくないが、同様に政治家および国民の犯した過ちもまた大きかった。政治家がドグマに基づいて政敵を批判し、国民がそれに乗じて叫ぶ。その情景はおそらく、中国の文化大革命期と大差なかったろう。
ドグマの渦巻く時代に、それに逆らうことは難しい。結果、少数の理性は沈黙を強いられ、国もろとも破滅への道へと突き進んだ。
敗戦後、「軍や政府」と自らを切り離す言説が広く行き渡った。そりゃ、誰だって「自分もドグマに乗じて踊っていました」なんて言いたくはないからな。
結果、アカピーのごとき妄言を唱える輩が大きな顔をしてのさばる。だが、そのように罪過と自らを切り離し、己をイノセンスな存在として保護する姿勢は、当然ながら反省とは結びつかない。
私は、そういった過誤を「国民」として受け入れ、過去を反省しつつも現在という泥の中に足を踏み入れるべきだと考えている。それは、国の主権者たる「国民」の一人としての義務だ。
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