647年、現在の新潟市沼垂付近に軍事拠点が築かれた。渟足柵(ぬたりのき、ぬたりのさく)と呼ばれる城柵である。
当時その地は河口に近い湿地帯だったようで、遺構は現存していない。
その頃の朝廷から見ればこのあたりは北東の辺境で、蝦夷の勢力圏に近かったそうだ。
当時の人々にとって、京と新潟の距離感はどれぐらいだったのだろう。徒歩で行くとなると距離だが、日本海を通じて意外に身近だったのだろうか。いや、中国大陸とかの広さを考えれば、これぐらいの距離はたいしたことないとでも思っていたのか。
まったく不勉強故に、そんなこともわからないな。などとぼやきつつ、今日はTAEBO 1。そう、感覚を掴むレベルに近づいてすらいないのがまずいんだよな。
『源氏物語』「須磨」「明石」の描写を例に引いてみると、都から見て当時の須磨・明石は現代的に言えば「たまに行き来できる外国」。台湾やグアムの感覚でしょうか。
「玉鬘」によれば、筑紫や東国は「出発にあたり今生の別れを覚悟するほどの辺境の外国」。中央アジアとか中部アフリカの奥地に行く感覚でしょうか。
それより遠い辺境は、もはや「一族郎党と共に移住をするつもりで赴く外国」でしょう。実際、中央から下向した貴族たちの子孫が在地武士団の棟梁となるのです。
今風の感覚では…火星?
投稿情報: ばべる | 2010-02-01 23:22