740年、九州太宰府にて藤原広嗣が挙兵した。
737年の天然痘流行で藤原家は実力者を失い、代わって橘諸兄らが聖武天皇に重用されるようになる。738年に広嗣は太宰府へと赴任するが、本人はこれを左遷と受け取った。
彼は「朝廷を乱す輩を罰するよう乞う」との名目で兵を挙げたが、朝廷はこれを受け入れなかった。
彼は北九州にて官軍を三方向から包囲して倒すべく図ったが、投降した者たちから計略が漏れ、破れた。
彼は五島列島経由で新羅へと逃亡を図ったが、風は彼に味方せず、五島列島に押し流された。いったんは潜伏するも捕らえられ、彼は刑死する。
彼が朝廷から排除しようとした実力者の一人、僧の玄ボウは746年に亡くなるが、これについては奇怪な話が伝えられている。空中から現れた手が彼を連れ去り、後日、寺にかれの頭だけが落ちていたという。この手こそ誰あろう、恨みを飲んで死んだ広嗣の怨霊だったというのだ。
おそらく後世の創作だろうが、それほどに広嗣の怨みのイメージが、世間に共有されていたということなのだろう。
などと霊によって…もとい例によって知ったようなことをほざきつつ、今日はTAEBO T3 アクセラレーション(エクスプレス)。
怨恨のイメージは人々に強く残るけど、それを抱いた人自身はたいてい失敗して終わっちゃっているよね。スケールは違うけど、わしも似たようなものかな。
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