927年は徐温の没年。
唐の末期に楊行密が呉(十国)の王となり、事実上の独立国を築いた。しかし病死した彼の後を継いだ楊渥は傲慢で、遊興に耽った。徐温は907年、張顥とともにクーデターをおこして権限を掌握する。翌908年には楊渥を殺害し、その弟である楊隆演を擁立する。
徐温は反乱の同志である張顥を殺害し、実権を握った。
919年に呉は唐との関係を絶ち、名目上も独立国となる。翌920年に傀儡であり続けた楊隆演が病死すると、徐温はあからさまに禅譲への準備を始める。楊隆演の弟である楊溥が王とされたが、当然これも傀儡だった。
しかし927年に徐温は没する。後に彼の養子である徐知誥が楊溥を皇帝の座につけ、さらにそこから禅譲させることで、呉は失われる。
徐温は自らの野望の完成を待てなかった、ということか。
唐の末期に楊行密が呉(十国)の王となり、事実上の独立国を築いた。しかし病死した彼の後を継いだ楊渥は傲慢で、遊興に耽った。徐温は907年、張顥とともにクーデターをおこして権限を掌握する。翌908年には楊渥を殺害し、その弟である楊隆演を擁立する。
徐温は反乱の同志である張顥を殺害し、実権を握った。
919年に呉は唐との関係を絶ち、名目上も独立国となる。翌920年に傀儡であり続けた楊隆演が病死すると、徐温はあからさまに禅譲への準備を始める。楊隆演の弟である楊溥が王とされたが、当然これも傀儡だった。
しかし927年に徐温は没する。後に彼の養子である徐知誥が楊溥を皇帝の座につけ、さらにそこから禅譲させることで、呉は失われる。
徐温は自らの野望の完成を待てなかった、ということか。
梟雄とも言えるが、乱世の中で立ち上がるのだから当然かもしれない。などと知ったふうなことをほざきつつ、今日はターゲットタエボーの背中および腹筋。
わしなんかは香も焚かず屁もひらずのたぐいだからなあ…。
わしなんかは香も焚かず屁もひらずのたぐいだからなあ…。
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