919年は三善清行の没年。漢学者で、参議などを勤めた。
そのように大成した彼だったが、若き日には官吏登用試験に落ちたことがある。その時に試験官を務めたのは、今日「学問の神様」として知られる菅原道真だった。
菅原道真は宇多天皇(後に上皇、法皇)に重用され右大臣にまで上り詰めるが、醍醐天皇や左大臣藤原時平らから反発を招いていた。朝廷内で孤立しつつあった彼に引退を勧告したのが、三善清行である。しかし登用試験以来二人の間には因縁があったようで、道真はそれを退けてしまう。
そして901年、藤原時平の讒言を受け、醍醐天皇は道真を太宰府に左遷する。また、その子4人も流刑となった。いわゆる昌泰の変である。
このとき、三善清行は道真の関係者すべての連座は朝廷の機能停止に繋がると時平に意見したと伝えられている。その一方で彼は菅原高視(道真の長男)に代わって大学頭の地位を得ている。それゆえ、彼も昌泰の変になんらかの関与をしていたのではないか、と考える向きもある。
変から2年後の903年に道真が没し、時平も909年に39歳の若さで病死する。後に「道真の怨霊の祟り」と噂されるあれである。
だが三善清行の死については特段そのような話は出ていないようだ。天寿を全うした、と見なされたのだろう。
この後に清涼殿への落雷など異変が重なり、道真の名誉回復が図られる。だがその際に政変関連の文書類の破棄などもあったようで、昌泰の変の真相は必ずしも明らかではない。三善清行の関与についても不明なままとなっている。
因縁があるといろいろ疑いの目を向けられるものだよねえ、などと思いつつ今日はターゲットタエボーの二頭筋&三頭筋、背中、および腹筋。
なにごとにも理由や関係がある、と思いたがるのは人の常、なのかね。