971年はガズナ朝君主、マフムードの生年。
父サブテクギーンはマムルーク(奴隷軍人)だったがガズナ朝の支配者となった人物だった。今日のアフガニスタン・ガズニーを首都とするこの国に最盛期をもたらしたのが、マフムードである。
彼は当初、すでに不安定になりつつあったサーマーン朝の援軍としてホラーサーン(現イラン北東部) 攻略戦に参加し、実戦経験を積んだ。
即位後はまず北のカラハン朝と矛を交えたが敗れ、 外交により守りを固める。
サーマーン朝はホラーサーンを巡ってマフムードと対立するが、逆にこれがカラハン朝の攻撃を呼び込んだ。サーマーン朝がカラハン朝に打ち倒されると彼はこれと姻戚関係を結び、和議に持ち込む。
機を見るに敏な彼は、矛先をムルターン(今日のパキスタン・パンジャーブ州方面)へと向ける。異端のイスマーイール派ファティーマ朝を叩く事で、アッバース朝との関係を強める狙いがあったようだ。
インドのシャーヒー朝はサプテクギーンとの戦い以来ガズナ朝に復仇の念を抱いていたため、マフムードと激突した。彼は軍事的勝利と巧みな外交によって北インドへの橋頭堡を構築する。
彼はその後17回もインドへと侵攻し、ヒンドゥー寺院を襲撃、富を奪い去った。
この富をマフムードは文化面にも投資し、多くの文人が集まった。彼が建立させたミナレットは今日もガズニーに残っている。
彼はインド以外にもたびたび兵を進め、ガズナ朝の版図を大きく広げた。西はカスピ海南岸、東はガンジス川にまで至り、北も中央アジアのサマルカンドにまで及んだ。
多くの軍事的成功もそうだが、外交・交渉の巧みさもまた特筆すべき人物であったろう。また、インドについては一定以上の進出・占領はせず、ただ略奪に留めた点も興味深い。四方を様々な勢力に囲まれたアフガニスタンだったからこそ、どこと結び、どこと戦い、どこまで確保するかが重要だったのだろう。
などと知った風なことをほざきながら、今日はTAEBO 1。
なにごともバランスを取るというのは難しい。
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