YOMIURI ON-LINE「中国当局『対日新思考』『反日』どちらも封じ込め」より。
12億人(だっけか?)もの膨大な人口を、概ね単一の文化で束ねているということ自体に無理があるのではないか。
金だらいに水を満たして運ぼうとすれば、わずかな傾きでこぼしたりしかねない。最悪、ひっくり返りかねない。だからそこに、不自然な蓋をする必要が出てくる。
同じ量の水でも、いくつかのバケツに分けて運べばそんな心配も減る。ちょっと注意すれば蓋もいらないから、効率もいい。
中国はもはや世界経済の一部だ。インターネットもあり、情報の流通を止めることも難しい。
人込みの中を進もうというのに、金だらいを抱えて「そこ、どいて!」なんて叫び続けるなんて無茶な話だ。いずれ誰かに「いい加減にしろ」と一喝されるのが落ちだろう。
願わくば、そこで水をひっくり返す前にそろそろとバケツに水を入れ替えてくれますように。
『老子』60章、
「大国を治むるは小鮮を烹るが若し」。
まあ、だからと言って、道家を引いて米の現政権への攻撃に直に使ったりするのも、それこそ道家をちゃんと読んでなぞいないことを自分で大宣伝しているようなものですが(多いですね。そういうブログとか)。
『老子』3章、
「ここをもって聖人の治むるや、その心を虚しくしてその腹を実し、その志を弱くしてその骨を強からしむ。常に民をして無知無欲ならしめ、知者をして敢て為さざらしむれば、治まらざるはなからん」
それとも、自分は「民」ではなく「聖人」「知者」の側にいると思っているからこそ、道家を世界共有の統治の理念にしようなどという恐るべき発言ができるのでしょうか。
つまるところ道家は法家に通じるものですから、中国共産党テクノクラートの心理や文化、あるいは中央集権と地方分権の二元論を伺い知る一助にもなるかも。
ああ、あまり関係のないコメントですみません。
投稿情報: ばべる | 2004-10-03 15:09