酔狂人の異説「他人にコミュニケーション能力を求める者はコミュニケーション能力が乏しい」より。
技術者とのコミュニケーションに対して、技術的な知識を高めるという労力を払って改善するほどの価値は無いと見なしているということがもう一つ。口では「コミュニケーション能力」と言いながら、態度ではコミュニケーションを拒絶していることになる。
注意:以下は私がいろいろ見聞きした事例に基づく考えであり、決して特定の会社を批判するものではありません。
技術者でもなんでもない私が言うのも何だが。
たしかに、技術者だってコミュニケーション能力が高いにこしたことはない。しかし真の問題は、技術者のコミュニケーション能力不足に問題を矮小化してしまう点にある。
人間誰しも「見たい現実しか見ない」側面がある。だが技術者はそれでは仕事にならない。彼らは融通の利かぬシステムをもって現実に対応せしめねばならず、見たくない現実を無視する余地はどこにもない。
しかし、「エライ人」や「現場」は必ずしもそうではない。
彼らは「経営」やら「稼ぐ」やらという「現実」と深く結びついている。たとえ彼らがそれら「見たい現実」だけを見ていても、批判は難しい。それらの「現実」は歴史的にも社会的にも広く共有されているからだ。
それゆえ、彼らは見たくない現実を無視できる。例えばこうだ。
「そういった技術的な部分は君たち専門家で考えてくれ」
「現場は忙しいんだから、そのあたりは自分たちで見て判断してくれ」
こうなると、技術者のコミュニケーション能力がどうであろうと関係ない。「エライ人」は「見たい現実」を見える化して安心し、「現場」は作業を通して没我の境地に達する。そのうちに、当然のことながらプロジェクトは頓挫する。
得てしてそこで、彼らはこんなふうに言う。
「技術者らがきちんとわかりやすく真の問題を提示していれば、こんなことにはならなかった」
彼らは決してウソをついている訳ではない。少なくとも、彼らの「見たい現実」の中では。よって、その誤認は是正されない。こうして「技術者のコミュニケーション能力不足」だけが喧伝され、失敗は飽くことなく繰り返される。
烈風は海軍の「経営」的理由から不適切なエンジンを押しつけられ、「現場」の格闘戦重視の声から低翼面荷重を強いられた。結果、烈風は明らかな駄作となった。
なるほどたしかに堀越技師らがより適切なコミュニケーションをとれば、問題は回避できたかもしれない。より現実に即した機体を、より早期に完成せしめ、戦況をわずかならがらも改善できたかもしれない。しかしそれは本当に可能だったのか。
日経なんとかやらITなんとかのコミュニケーション重要論を見ていると、そのように感じられてならない。