アマジャナ「『ドラえもん』の呆れた制作裏事情」より。void GraphicWizardsLair経由。おそらくは、記事の本質とはまったく関係なく。
「こんな人がやってるんじゃ、ドラえもんがおかしくなるのも無理ないですね。 本当のドラえもんはどこへ行ってしまったのかな……。」
気持ちはわからないでもない。
慣れ親しんだキャラの声が変わったり、しかもそれが「話題作りのためだったのではないか?」と感じられるのは不愉快だろう。また、話題作りの策においても芸能人のゲスト出演など小手先の技に頼っているとなればなおさらだ。アマ・ジャナの記事を読む限り、安達氏の賢しらな下策が目立ち、不評を買うのもやむを得ないところと想像される。
だが、それをもって「本当のドラえもん」でないと批判するのはどうなのだろう?
なるほどたしかに、過去の作品に素晴らしい部分は多かったろう。だが、それをなぞることが「本当」を維持することになるのだろうか?
例えば、初代「ゴジラ」や初代「ウルトラマン」を讃える声がある。音楽にだって「ブルースの神様」だの「ロックンロールの王」だのがいる。それらだけが「本当」なのだろうか?
それらには多くの美点があり、それらなくして歴史は始まらなかった。だが、それらと異なるものたちは「本当」ではないのだろうか?
私はそう思わない。エポックメイキングな作品、歴史の始まりに立つ人に敬意を示す行為とは、それらをなぞることだけではない。
過去のどんな作品もどんなアーティストも過ぎた時代の存在であり、それら時代と切り離して受け取りはできない。今を生きる者たちは当然「今」という時代と切り離されるべきではない。その中で過去の作品への敬意を示すには、「読み直す」「説き直す」という手法も含まれるべきだ。
「ムーミン」へのリスペクトとして「楽しいムーミン一家」があってもいいし、「ガンダム」を「シード」という形で説き直してもいい。それらはそれらで「本当」だ。
無論、「シード」と「ターンエー」のいずれが面白いか、とか「ネクサス」と「メビウス」のどちらが優れた読み直しか、とかはすべて別の話として存在するが。
とりあえず
ニセモノのドラえもん=F先生のではないドラえもん=「南海大冒険」以後の長編作品
ということでよし?
投稿情報: ばべる | 2006-12-23 18:12
まいきーは旧ムーミンよりも「楽しいムーミン一家」のほうが好きだったりします。
新ムーミンのほうがほわほわしててかわいいし。
あ、いえ。
岸田今日子さんはリスペクトしてますが。
投稿情報: mikey | 2006-12-26 20:21
わたしも「楽しい」のほうが好きですね。
初代よりもずっと原作に近い作品ですが、そうであっても制作者たちの胸の中には初代ムーミンへの思いがきっと秘められていたろうなあ、と妄想。
原作は…あれのせいで図書館通いを始めたのだったなあ。わしの人生を狂わせたムーミン、にくい奴。
投稿情報: Hi-Low-Mix | 2006-12-26 20:39