Kojii.net ココログ別館「リアリズムのガイドライン」、孤高「ネタ化して遊ぶということ」、摂津堂テクスト/日記のような、何か 「ネタ化して遊ぶことの是非/ネタ度スライダー」、より。
「またしても正しく人に伝えられなかったなあ」と絶望しつつも、あがいてみる。
- 世の中には、自らの感じ方、考え方だけを「正」とする人々が少なからずいる。
- 「感じる」「考える」ことはつまるところ個々の人々の内面でおこなわれていることであり、「完全な共有」はあり得ない。
- それゆえ誰も、自らだけを「正」と捉えることから完全に逃れることはできない。当然私自らも例外ではない。
- 「完全な共有」は不可能だが、目指すべき方向性である。「共有」(寛容とか、自己の拡大と言い換えても良い)が人と人とを結び、共に暮らしを、歴史を紡いできたという事実に、敬意を払うべきだからだ。
- それゆえに、自らの感じ方、考え方を相対化し、相手の感じ方、考え方を理解できるよう努力し続けねばならない(なお、理解することと同調することは必ずしも一致しない)。その点で、私は恥ずべき生き様をしている。
- また、自らの感じ方、考え方を他者へより正しく伝えるよう努めねばならない。その点でもまた、私ははなはだ不完全であり、絶望的ですらある。
- 「正しいこと」を主張しているがゆえに、相手の言説を勝手に加工して自らの「正論」への補強材としてよい、などという姿勢は道理に反している。私はそのような姿勢を軽蔑する。
- だからといって、同様の手法でそれらを批判してはいけない。そのようなことをすれば、相手(自らの正しさを盲信する人)は自らの方法論が正当だという確信を強めるだろう。
- 最初は道理に沿った手法で説いていたはずだったのに、いつの間にか相手と同様の手法に陥るケースは多々ある。笑いという形での批判や「ネタ化」にもその危険性は常につきまとっている。まして多人数でそれを行えば危険はさらに大きくなる。それゆえ、慎重さが必要だと私は考える。
- 真摯な対話の姿勢を示し続けることは難しい。ことに自らの感じ方、考え方を正しいと信じ込んでいる者に対してはなおさらだ。私自身、そんな姿勢をほとんど示せず、主張する資格はないかもしれない。それでも常に、目指すべきだと考える。それだけが、人と人をつなげる行為だからだ。
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