紀元前295年は趙の君主、武霊王の没年。
趙は戦国七雄の一つだったが、武霊王の代に遊牧民族の騎馬戦法を取り入れて、他国に抜きん出る存在となった。
当時、騎馬で闘うのは夷狄たる遊牧民たちであり、大夫らは戦車を操っていた。また、遊牧民らは乗馬に適したズボン状の衣服を着ていたが、漢民族はこれを嫌い、戦闘時もスカート風の裾の長い服を身につけていた。
騎馬ならば一人で戦術ユニットになるのに対し、戦車を操り闘うには三名が必要だった。どちらが効率的かは誰でもわかりそうに思えるが、定着している観念を切り替えるのはいつの世でも難しかったのだろう。日本も真珠湾攻撃を成功させながら大艦巨砲の夢から逃れられなかったことを思えば、趙の人々を笑えない。
武霊王は懸命に臣下を説得し、騎馬民族の衣服と騎馬戦法(胡服騎射)を導入した。導入後も異論は続出したようで、それらを得心させるために心を砕いたようだ。
これ以後、趙は中山を滅ぼすなどして版図を広げる。彼は優れた洞察力と論理性、そして交渉力を有していたと思われる。
だが残念ながら、後継者の選択において彼はその力を発揮できなかったようだ。
後継争いから武力衝突となり、彼は拠点に追い込まれた。3ヶ月の包囲の末、彼は餓死する。独創性に富んだ英雄の末路としては、悲惨な話だ。
なお、胡服騎射は戦国末期には他の諸国でも採用され、その後のスタンダードとなっていったようだ。彼の決断がなければ、三国志などでの戦闘もずいぶん趣が異なっていたかもしれない。
世の中変わり者も必要だが、必ずしもずっと必要とする訳じゃないんだろうな、などと思いつつ今日は基本プログラム。わしもある意味では包囲下にあるが、はてさてどうなることやら。
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