330年、ローマ帝国はビザンティン(ビュザンティオンとかビザンツとかまあいろいろな表記があるけど…)に遷都した。
皇帝コンスタンティン1世はこの都市に「ノウィ・ローマ」の名を与えたが普及せず、人々は「コンスタンティンの都」コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)と呼んだ。
黒海とマルマラ海を結ぶポスポラス海峡に接し、欧州とアジアの接点に位置するその地は、地政学的に極めて重要な位置にあった。また、良港たる金閣湾にも恵まれ、交易拠点としても抜きん出ていた。
コンスタンティノープルは長く栄え、10世紀末にはキリスト教世界最大の都市であったという。だが1204年、第4回十字軍はこの都を攻め落とした。都は後に回復されたものの、その国力は大きく衰えていた。そして1453年、コンスタンティノープルはオスマントルコによって陥落する。スルタンたるメフメト2世はこの地に遷都し、人々はそこをイスタンブール(イスタンブル)と呼ぶようになった。オスマン帝国崩壊まで長らく首都の地位にあったが、英雄ケマル・パシャ(ケマル・アタテュルク)は共和制への移行に伴い首都をアンカラに移した。しかし今日もなお、イスタンブールはトルコ最大の都市である。
ちなみに、イスタンブールの漢字表記はいまだにコンスタンティノープルを音訳した「君府」だ。
まこと、どれほどの歴史がこの地に堆積しているのであろうか。およそひと一人の知識でこの地のすべてを把握することはできまい。だが、それでもそのごく一部であろうと学びたいものだ。
てな訳で今日はエリートのミッション3。まだまだエクササイズの理解は不足しているが、それでも続けなければ学べるわけもない。
細かいことですが…
「ビザンティン」は帝国に関係する事柄にかかる英語の形容詞。「ビザンツ」はその転訛。
首都の旧名はラテン語で「ビュザンティウム」、新たに公用語となったギリシア語なら「ビュザンティオン」。
「ローマ」は女性名詞なので当然これにかかる形容詞も女性格となって
×「ノウィ・ローマ」
○「ノウァ・ローマ」
「コンスタンティン」は英語名でラテン語では「コンスタンティヌス」、ギリシア語で「コンスタンティノス」。
ヘラクレイオス帝の治世を境に、それより前をラテン語文化、後をギリシア語文化優勢として言葉の表記もそれに合わせるのが一般的です。
ビザンツ帝国関係の邦語文献が続々と出版されているのは一昔前では想像もできなかった状況ですが、とりあえず入門書としては以下がお勧めです。
井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』
渡辺金一『中世ローマ帝国 世界史を見直す』
投稿情報: ばべる | 2008-07-07 17:14
オスマン朝については残念ながら、まとまった一般書は鈴木薫『オスマン帝国』しかないです。
投稿情報: ばべる | 2008-07-07 17:18
ご指摘ありがとうございます。
鈴木先生の本はいくつか読んでいますが、いずれも面白いですね。
投稿情報: Hi-Low-Mix | 2008-07-08 21:48