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2009-03-17

コメント

ばべる

前代の宗室を残しておくと、自分の子孫が帝位を奪い返されるのではないか…という疑心暗鬼の念から「禍根を断つ」皆殺しを行うのですが、やがて再び王朝交代の時を迎えると、その自分の子孫は新しい実力者に禅譲を強いられ、自分がやったのと同じように皆殺しにされてしまう。
特に短命な軍事政権の多かった南北朝時代は、始めから終わりまでそのほとんど繰り返しです。

長い南北朝の争乱は北朝最後の軍事政権、唐の太宗によってやっと終わらせられますが、実権の掌握に当たり、彼は実の兄と弟を文字通り自分の手で殺さなければなりませんでした。

Hi-Low-Mix

安定した時代・環境の価値観をそのまま歴史に当てはめる愚をおかしてはいけない、ということでしょうね。
かつての宗室を殲滅しなければ、それ以上の流血が続くという事態も有り得たでしょうから。
とはいえ、殺される側の気持ちを思うとかなわないですねー。

ばべる

>殺される側の気持ちを思うとかなわないですねー。
帝位を追われた順帝は、死を賜る蕭道成からの使者がついにやって来た時、どうか命だけは助けて欲しいとすがりついて懇願しましたが、使者に「お気の毒ですがわたしにはどうすることもできません。あなたのご先祖がかつて(晋の)司馬氏を滅ぼされた時と同じなのです」と拒絶され、「どうして皇帝の家になど生まれたのだろう」と嘆きながら死んでいったと伝えられています。
助かったのは、北朝に亡命したただ一人の皇子だけでした。

ばべる

>ただ「帝位を簒奪した」と言わせないための禅譲だったのだろう。
ちなみに現在の中国史の通説では、禅譲の機能は礼教(儒教)と貴族性によって説明されています。
晋から南北朝、唐までの中世の諸王朝は、たとえ軍事国家であろうとも主導を担っていたのは貴族社会でした。これは常に文が武が優越する中国ならではの特徴で、欧米や日本には見られないものです。
貴族とその他の人々とを区別していたのは、第一に礼教に基づく教養と規範(儒教倫理)でした。
簒奪者は、禅譲という礼教に典拠を持つ権力交代の儀式を行うことで、初めて正統な権力者として、そして貴族の一員として貴族社会に認められたのです。

ですから、中世貴族社会の解体と共に禅譲の役割も消滅します。宋の太祖趙匡胤のクーデタが史上最後の禅譲でした。
宋以後の王朝は科挙制に支えられた皇帝専制国家となり、社会は一変するのです。

ばべる

失礼
×貴族性
○貴族制

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