764年は藤原仲麻呂の乱があった年。
藤原仲麻呂は孝謙天皇そして光明皇太后の信任を利用し、事実上の最高権力者として振る舞った。彼の下で暮らしていた大炊王を立太子、さらには即位させ、淳仁天皇とする。太政大臣の地位も得、親類を要職に据えるなどして権勢を誇った。
だが光明が死去し、孝謙上皇が道鏡を重用するようになると、状況は少しずつ変わっていった。危惧を感じた彼は淳仁天皇を経由して孝謙上皇に対し道鏡への姿勢を諫めたが、これがかえって仇となった。
孝謙上皇は淳仁天皇より国政に関する権利を奪い取り、さらに道鏡を重んじる。
ことここに至り、彼はついに軍事力をもって政権を奪取しようと動く。しかし、彼の部下よりクーデター計画が漏れる。
玉璽の奪い合いなどを経て、ついに彼は平城京を逃れる。宇治、勢多を経て近江の国へと向かう仲麻呂の前に、吉備真備の軍勢が立ちふさがった。吉備真備は仲麻呂によって幾度も左遷されて屈辱を味わってきていたが、ここで彼の軍事知識が活かされた。
吉備真備は勢多の橋を焼き落とし、仲麻呂の意図を阻む。仲麻呂は琵琶湖西岸を北上して越前へと逃れようと図るが、官軍に先回りされ、ついには琵琶湖西岸の三尾の古城に立てこもる。
官軍は援軍もあり、ついには城を攻め落とした。仲麻呂は船で逃れようとしたが、ついに殺害される。
同年、淳仁天皇は廃位され、淡路へと送られる。孝謙上皇は再び皇位へと戻り、称徳天皇を称する。称徳天皇と道鏡を中心とした体制へと、時代は変わった。
まー、クーデター計画が漏れちゃったのがまずかったわな。やはり、景気の良いときに身内ばかり贔屓にしていると、いざという時に部下がついてこないものなんだろう。
などと適当にほざきつつ、今日はTAEBO T3 イグニション(エクスプレス)。
わしもどうなんだろうねえ。仲麻呂と比べちゃまずいんだろうが、調子良いときに他人の反感を買っていたんじゃないの?
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