938年、南漢の劉弘操率いるおよそ1万の兵をベトナムに派遣した。ベトナム矯朝の矯公羨からの派兵要請に応じてのことだった。
当時ベトナムは長き中国の支配下にあり、矯公羨もまた、931年に南漢に背いた楊廷芸を倒して(937年)その地位を得た男だった。
矯公羨が援軍を求めたのは、呉権の反乱を鎮圧するためだった。呉権は楊廷芸の娘婿で、南漢との戦いで頭角を現した人物だった。伝説では眼光鋭く怪力の大男で、さながら虎のようであったとされている。
彼は南漢と合流する前に矯公羨を倒し、ハロン湾付近の白藤江河口付近に兵を配置する。白藤江は両岸が森で覆われ、潮の干満の影響を受けやすかった。呉権は切り出した木から作った杭を河口付近に打ち込ませ、干潮時のみそれが見えるようにした。
彼は満潮時を見計らい小舟艇の一団を用いて南漢艦隊を誘引する。
潮が引き始めると呉権が配置した伏兵が一斉に南漢艦隊を攻撃した。集中する攻撃に南漢は退却を試みるが、先に配置された杭によって艦艇は身動きがとれなくなる。艦艇は衝突して次々と砕かれ、そこを小舟艇の機動力を活かした呉権の兵がさらに叩く。南漢は艦艇を捨てて逃れるしかなく、実に半数の戦力を失ったという。
ベトナムにおける中国の支配を終わらせたこの戦いは、「白藤江の戦い」として記録されている。
てな訳で今日はターゲットタエボーのヒップおよび背中。長き支配にも終わる日がある、ということは憶えていたいな。
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