969年はキエフ大公妃オリガの没年。民族や家柄、その生年も不明瞭だが、今日のエストニアに近いプスコフの出身だった。
彼女と結婚したイーゴリ1世は、キエフ大公として周辺部族や東ローマ帝国と戦った。だが945年、東ローマとの条約締結もつかの間、デレブリャーネ族により暗殺されてしまう。
その子スヴァトスラフ1世が後を継ぐが、まだ幼かったためオリガが摂政となった。彼女はデレブリャーネ族に徹底的な復讐をした。
デレブリャーネ族の使節、貴族らは皆殺しとされ、首長を船ごと生き埋めにした。彼らの首都であるイースコロステニは焼き払われ、他の町も平にされたと伝えられている。
なお、デレブリャーネ族との戦いにおいて最初の槍を投げたとされるスヴァトスラフ1世はその後965年には親政を始める。
これに先立ち、オリガはコンスタンティノポリスにおいて洗礼を受けている。東ローマとの結びつきを強化するのが狙いだった見られるが、後に正教会において聖人として位置づけられている。
スヴァトスラフ1世は次々と転戦してハザール王国を攻め滅ぼし、ブルガリア帝国にも攻め込む。だが969年、かつてのハザール王国に進入してたペチェネグ族は、これを好機とみてキエフを包囲した。 オリガはプレチチ将軍らとともに防衛に努め、とって返したスヴァトスラフ1世は見事ペチェネグ族を打ち払う。
しかし彼は、母オリガにドナウ川沿いの ペレヤスラヴェツへの遷都を宣言した。病を得たオリガはこれに消極的だったが、息子の決心を変える事はできなかった。
「せめて自分が死ぬまで待って欲しい」と懇願した彼女は、結局その三日後にこの世を去った。
なお、オリガはスヴァトスラフ1世にも洗礼を受けるよう勧めたが、これは拒絶されている。彼はその後ブルガリアをめぐって東ローマと戦っており、あえて彼らに迎合する意義を感じていなかったのだろうと思われる。
根絶やしに近い復讐、積極的な外交、そして死の間際まで戦いぬいた不屈さ。女傑と呼ぶにふさわしい人物であったろう。
まーガッツな人もいるもんだねー、とのんきにほざきつつ、今日はエリートのミッション1。ガッツってのは生まれ持つものじゃなかろう、と信じたい。