975年はファーティマ朝第4代カリフ、ムイッズの没年。彼の治世でファーティマ朝は最盛期を迎えた。
ファーティマ朝はイスマイール派を奉じ、初代ウバイドゥッラーのころからエジプトへの遠征を幾度も試みていた。アッバース朝はテュルク系マムルークの軍勢をエジプトに送り、これに対抗したが、その将軍がエジプトの実権を握る。このムハンマド・イブン=トゥグジュが開いた王朝が、イシフード朝である。
イシフード朝はエジプトのみならず南シリアも手中に収めるが、ムハンマドは後継者育成にはしくじったようだ。黒人宦官のカーフールが実権を持つうちはまだ維持こそできていたが、968年、その死去とともにイシフード朝は内部崩壊をおこす。
ムイッズはシチリア出身の将軍、ジャウハルをエジプトへと向かわせた。彼は第3代カリフ、マンスールの下で頭角を現した人物だ。ムイッズの下でも後ウマイヤ朝とのモロッコを巡る戦いで実力を発揮している。
969年にジャウハル率いる10万の軍勢はまずアレキサンドリアへと向かい、さらにナイル川を南下して首都フスタートを落とした。ジャウハルが抵抗したかった者については生命と財産を保証したこともあり、その抵抗は小さかったという。
特筆すべきは、ファーティマ朝がイスマイール派の信仰をエジプトの市民らに強要しなかった点だろう。スンナ派の信仰を認めることによって融和を図ったようだ。
ジャウハルはフスタートの北東にカーヒラ(勝利)という新都市を建設する。これが今日のカイロである。 だがこの地に建立されたアル=アズハル・モスクはイスマイール派の大拠点となり、後にイスラム圏広域に同派の教理を伝えることとなる。
ムイッズは975年にはメッカ巡礼を果たしイスラム圏にその地位を高らかに宣言したが、同年に亡くなった。
後にスンナ派による反ファーティマ朝運動が激化し、王朝は弱体化していく。ムイッズによる教派間融和政策こそが国の最盛期を導いたのかもしれない。
などと適当にほざきながら、今日はTAEBO1。評価は難しいね、自分自身についても。
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