そういう出来事は生きている限り遭遇しないわけにはいかない不幸なわけだけど、彼らはそれを発奮材料にすることもなければ、悔しさに歯軋りしてみせることもない。ただ、呻くだけである。
一般論はわからないが、1996からWeb上で愚痴をぐだぐたと書き連ねてきた自分について記述しておくことには意味があろう。
私が「怨念戦隊ルサンチマン」のタイトルで書いていたころは、まさしくシロクマさんがおっしゃるとおり、痛みを怨念として受け止め、なんとか復讐してやろうと試みていた。だからこそ「ゼータ0096」も書いたし、無茶な仕事もやった。
たとえそれ自体が成功につながる道のない行為であっても、魂の限りを叩きつけた。
たとえそれが自らの墓穴を掘ることにつながるとわかっていても、滅私奉公のつもりでやった。
そうできたのは、まだ自分の実力を信じていたからだ。自らが全力であたれば、どこかで誰かが自分を認めてくれるだろう。いや、認めずにはいられなくなるに違いない。そんな人間は百人に一人かもしれないが、必ず現れる。自らの力を、そう信じていた。
だが今や、私は自らの無力さに気付いてしまった。私は、私の心に映ることがらを信じられない。私は、私が口にする言葉が相手に届くと信じられない。
同じことがらを見ているはずの者たちと語ってもなんら同意が得られない。むしろ、私に対する理不尽な(と、私が感じる)決めつけが一般的な認識として広く展開されるばかり。そんな様子を見れば、そう考えるしかあるまい。「アスペルガー症候群」の診断だけが、私の判断材料という訳ではない。
自らの無力さを知れば、自らがこれまでなしてきたことのすべてが後悔の対象となる。私の語った言葉、私の行為、私の決断。すべてについて後悔しかできない。無論、「今」についても、だ。他者を罵りつつも、そんな自分を悔やむ。言葉を口にしながらも、無駄に口を開く自らを悔やむ。
ならばなにも書かねばよいかもしれない。だが、私はやはり記録しておきたい。愚か者の愚かな行為を、いずれ誰かが他山の石とするかもしれない。それはきっと私の幸せには関係しないが、誰かの幸せには関係するかもしれない。
その程度のことでしかないが、今の私にはその程度のことしかできない。だから少しでも長く、呻き続ける。それが今の、私の誠意だ。
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