494年は、北魏が龍門に洞窟寺院の造営を始めた年。造営は歴代王朝によってすすめられ、今日でも世界遺産「龍門石窟」としてその偉容を留めている。
中国というと、新しい王朝が成立すると倒された王朝を否定して歴史を書き直すというイメージ(偏見)をもっているのだが、やはり宗教関連となると別枠扱いなのだろうか。たしかに、普及している宗教をわざわざ否定したり信仰施設を破壊したりしても、民意を損なうばかりだからなあ。
などと今頃間の抜けたことを考えつつ、今日はTAEBO T3 トランスフォーメーション(エクスプレス)とターゲットタエボー(脚・腹筋)。
文化にせよなんにせよ、蓄積を重ねてこそ変革が得られるものなんだろうね。
北朝諸王朝は異民族王朝ですからね。
秦漢以来、漢民族は前の王朝の宮殿やら何やらを盛大に破壊し尽くしてしまい、新しく一から造り直すのが通例ですが、我々周辺の蛮族は貧乏性なのでなかなかそこまでできないのです。
満州人の清朝は明朝の首都と宮殿をそのまま引き継いで使い、日本の明治新政府も徳川将軍の城をそのまま宮殿に使いましたが、漢人だったら全部豪快にぶち壊しているところです。
投稿情報: ばべる | 2009-04-21 12:23
なるほど!
しかし、そんな風に漢人が破壊と再構築を繰り返していたにも関わらず、これだけ歴史が続いてきたということは、彼らの生産性は我々蛮族よりずっと高かったということなのでしょうか。
さすがに「公共投資で需要拡大を図って、経済を活性化させた」なんてことはないですよねえ。
投稿情報: Hi-Low-Mix | 2009-04-21 20:31
>「公共投資で需要拡大を図って、経済を活性化させた」
宮殿や陵墓の造営はともかく、灌漑や治水、運河の開削といった大規模なインフラ整備事業は、中国文明の特質である専制的な皇帝権力の社会経済的な基盤ですが、現在で言うような経済波及効果を狙ったものではありません。
事業に動員される労働力は、税の一部として日常的に徴用される人民と、刑罰としての徒刑囚によって賄われており、これは軍隊の兵力の供給源と同じです。
もっとも、常に農村に存在する過剰な若年人口が盗賊化せぬように公に吸収するという社会的な機能はあったかも知れませんが、王朝末期ともなるとそれも急速に働かなくなってゆきます。
投稿情報: ばべる | 2009-04-22 21:34