以下ネタバレ有り。
タイトルから想像していたのとは異なり、現代の場面はわずかだ。視点は主として衛生下士官の”ドク”ブラッドリーにおかれる。硫黄島での戦いと、帰国後に戦時国債キャンペーンへとかり出される場面がフラッシュバックで交差するように描かれる。
物語は、「英雄」として帰国後の葛藤が中心だ。
興味深いのは、「英雄」3人の家族・恋人の描き方だ。”ドク”の恋人はグレイハウンドバスを一人待つという形で控えめにあらわれ、ギャグノンの恋人は群がるマスコミらに自らを誇示するかのように振る舞い続ける。ネイティブ・インディアンであるヘイズは母親にあわぬまま(一応要望はするのだが、あっさり取り下げる)再度前線へと向かう。
その後”ドク”は葬儀屋の経営者として(息子に讃えられるというかたちで)「成功し」、ギャグノンは清掃夫へと「落ちぶれ」、ヘイズは同族からも浮き上がったままのたれ死にする。彼らの人生をそう評価するのが正当であるか否かは関係ない。物語では、そう描かれる。
3人の「英雄」が等しく「無力な兵士」として描かれている以上、それらの相違は家族・恋人と相関するするものとして受け止めるべきなのだろう。やはりそれは、今日も続くイラク治安戦における将兵を後方から見守るアメリカ市民へのメッセージではないか。「英雄」として消費するのではなく、かといってベトナム戦争時のように批判するのでもなく、家族として、コミュニティとしてその帰還を願い、受け止めよ、との。
そう考えると、「英雄」ギャグノンを褒めそやしながらその後あっさりと無視する企業家が描き込まれている訳も、理解できる。
「英雄」を消費する者たちに監督クリント・イーストウッドが示す憤りは深いが、兵士らに向ける視線はどこまでも暖かい。「華氏911」や「チーム・アメリカ」とは、その点で大いに相違する。その差分が、先の中間選挙で共和党を支持を捨て民主党へと流れた人々の心情ではないかと私は想像する。