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うちはわりと各務原へ行きやすい場所にあるので、今日は岐阜航空祭に行ってきました。8時過ぎにはついたのですが、いい撮影ポイントはあらかたおさえられていました。当然と言えば当然ですね。ぎぎぎ、ライダーやプリキュアも見ないで出てきたというのにくやしいのうくやしいのう。とはいえ、いろいろ良い物も見ることができました。 こちらはいぶし銀、F-4<ファントム>。「ファントム無頼」ですり込まれているので、やっぱカッコイイです。 C-1の1号機だそうです。カーゴベイを開いています。 いろいろdisられることの多いF-2。しかし塗装もあいまってしびれます。低空での空中機動はF-15にすらひけをとらぬレベルと見えました。 ブルーインパルスのT-4です。私の腕が悪く、これがまだきれいに写っているほう。すいませんマチルダさん。今日は午後になるとだいぶ雲も低くなり、そのためか水平面での機動を中心とした演目でした。また、せっかくのスモークによるハートマークやサクラマークも、雲とダブって写真だと今一つ。ああ、天気がもう半日持ってくれれば…。
そして今回の目玉! 航空祭へはおそらく初の登場、次期輸送機XC-2です! 輸送機ながらなかなかスマートな印象を受けます。塗装のせいもあるのでしょうが。 機首のアップ。なんとなく和風な面立ちです。
飛行展示は朝8時半から幾度かに分けておこなわれたのですが、見終わって振り返ると人は増える一方! いっぱいあった屋台には人が並びまくっていました。こんなに多くの人を見るのは久しぶりです。次回はぜひ行きたいという方には、なるべく早く、お弁当を持っていくことをお薦めいたします。でも、屋台で食べたホルモン焼きやトルティアサンドも美味しかったです。
765年は、シーア派第6代イマームであるジャアファル・サーディクの没年。彼はイスラーム神学のみならず数学や天文学、化学などにも通暁していたという。その地位に関わらず学問には開明的で、イスラームについても異なる思想・信条の学者らとの論議も好んだという。彼の代でシーア派の教義が固まったとされるが、彼自身はウマイヤ朝、そしてアッバース朝の下で常に権力者の監視を受け、慎重に沈黙と学問を続けたと言う。
そのシーア派の聖職者たるホメイニ師が、聖職者による統治を主張し、そのような体制をイランに築いたというのはなんなんだろうなあ…などと思いつつ、今日はTAEBO T3 アクセラレーション(エクスプレス)。まあ、今のアフマディネジャド大統領なんて聖職者ですらないけど。
764年は藤原仲麻呂の乱があった年。藤原仲麻呂は孝謙天皇そして光明皇太后の信任を利用し、事実上の最高権力者として振る舞った。彼の下で暮らしていた大炊王を立太子、さらには即位させ、淳仁天皇とする。太政大臣の地位も得、親類を要職に据えるなどして権勢を誇った。だが光明が死去し、孝謙上皇が道鏡を重用するようになると、状況は少しずつ変わっていった。危惧を感じた彼は淳仁天皇を経由して孝謙上皇に対し道鏡への姿勢を諫めたが、これがかえって仇となった。 孝謙上皇は淳仁天皇より国政に関する権利を奪い取り、さらに道鏡を重んじる。ことここに至り、彼はついに軍事力をもって政権を奪取しようと動く。しかし、彼の部下よりクーデター計画が漏れる。玉璽の奪い合いなどを経て、ついに彼は平城京を逃れる。宇治、勢多を経て近江の国へと向かう仲麻呂の前に、吉備真備の軍勢が立ちふさがった。吉備真備は仲麻呂によって幾度も左遷されて屈辱を味わってきていたが、ここで彼の軍事知識が活かされた。吉備真備は勢多の橋を焼き落とし、仲麻呂の意図を阻む。仲麻呂は琵琶湖西岸を北上して越前へと逃れようと図るが、官軍に先回りされ、ついには琵琶湖西岸の三尾の古城に立てこもる。官軍は援軍もあり、ついには城を攻め落とした。仲麻呂は船で逃れようとしたが、ついに殺害される。同年、淳仁天皇は廃位され、淡路へと送られる。孝謙上皇は再び皇位へと戻り、称徳天皇を称する。称徳天皇と道鏡を中心とした体制へと、時代は変わった。
まー、クーデター計画が漏れちゃったのがまずかったわな。やはり、景気の良いときに身内ばかり贔屓にしていると、いざという時に部下がついてこないものなんだろう。などと適当にほざきつつ、今日はTAEBO T3 イグニション(エクスプレス)。わしもどうなんだろうねえ。仲麻呂と比べちゃまずいんだろうが、調子良いときに他人の反感を買っていたんじゃないの?
763年は、唐が安史の乱を鎮圧した年。755年に安禄山がおこした反乱は、その主を安慶緒、史思明、そして史朝義へと変える。息子による親殺しを二度も経たこともあってか、反乱軍は内部抗争により弱体化していった。唐はウイグル勢力の力を借りて攻勢に出て、反乱軍を倒す。史朝義は洛陽を逃れて再起を図らんとしたが、将軍の離反も続き、ついには自決へと追い込まれた。長きにわたった反乱は唐の権威を失墜させ、ウイグル勢力や各種軍閥が勢力を増した。
これだけのダメージを受けながらも唐の時代は十世紀まで続く。やはり大国、地力があったということなのだろうか。などといかにも自信なさげにつぶやきつつ、今日はターゲットタエボーの胸&肩および腹筋。まあ、強いからこそ他者の協力を仰げることも多い訳で。そういう意味じゃ、わしは弱いなあ。